昭和五十六年五月二十九日 朝の御理解

 御理解第六十七節 「何事も釘付けではない。信心を各自にして居らねば永う続かぬ。」


 信心が永う続かねばならぬ。それも親の代から子の代、孫の代というように続かねばならぬ。細い道でも踏み広げて通るのが繁盛と仰せられる。それもただ続いて居るというだけではなくて、繁盛に繁盛しながら本当のものがより本当なものになっていく繁盛を、繁盛という訳なんだけれども、それが、永う続かねばいけない。永う続くという所にいよいよ本当のものを求めて、本当な事になっていかなければ永う続かぬ。
 人真似、人真似というか、言われてとか、あちらがああだからというて、これは各自の所ですから、例えば昨日は安東さんの所の謝恩祭、宅祭でございました。これは、安東さんの所でけではないですけれども、宅祭をなさる所のお宅では、もう必ずと言ってよい程、ああ又今年も宅祭の時期が来たから、又宅祭せじゃこてというものではなくて、もう宅祭が近づいて来ると、一月も前から一家中の者が生き生きとして、その宅祭を願う。その宅祭を本当の謝恩のお祭りにさしてもらうという意気込みというか、そういうものがこれは、どこの宅祭の場合でもそれを感ずる。だから、いつの場合でもこれはそれがだんだん大きくなっていったのが、支部の大祭でしょうけれども、支部の大祭でもそうです。支部員の方達がもう前々から一生懸命願われる。そしてそこそこに特色はありますけれども、やはり本当に神ながらな御大祭が出来られる。だから、どこがどうだから、こう真似という事ではないけれども、それが信心、その各自にしておらなければ、永う続かぬと仰せられるように、各自にそれが出来ておるから永う続いておるのであり、より本当なものになっていっておるのである。ね、だから、うちも宅祭をいっちょしようと言うていうものではなくて、それはせずにはおれないものである。しかもそれが本当なものにだんだんなっていくという。
 昨日、私は安東さんの所で皆に聞いて頂いた事でしたけれども、それこそ、安東さん一家の方たちが、お宅祭お宅祭、謝恩祭謝恩祭と、まあ祈り願うてその事の云うなら、準備にもういろいろ心を使われる、いわゆる心配りをなさる。その祈りと、どうでも神様に喜んで頂くような謝恩のお祭りにならなきゃならないという願いとが一つになって、例えば昨夜の安東さんの所の宅祭になったわけ。もう本当に万事万端の上にお都合、お繰り合わせ頂いてのお祭りであった。こりゃいつの場合でもそうなんだ。しかもそのお祭りが、それこそあの天地が人間の生き死にが神様のお働きの中にあるなあとしか、感じられない程しのお働きを受けながらのお宅祭である、ね。だから昨日皆さんにも申しました事でしたけれども、この皆さんが宅祭を仕えるような心持ちで、日々が過ごされたら、このように素晴らしいタイミングと素晴らしい繁盛の大みかげが受けられるんだという事。
 なら宅祭を仕えさせて頂いとられ家庭でお祭りちゃ大変難しいもんだなあ、一月も前からお願いせんならん、一月も前から修行せんならんと云うようなものではない。いわゆる生き生きした心でそれを祈り、願うていかれる。それを日々もそうでなからにゃいかん。 日々もお祭りをするような気持ちでね。有り難い祈り、今日も云うならば、家業の行なら家業の行をです。宅祭を仕えるような思いで心を砕き心を配りさしてもろうてね、信心をさして貰う。そこにゃ日々がもう何からなにまで、お都合お繰り合わせを頂いてという一日を終わらなきゃ、終わる筈なんだ。だから、お祭りを仕えるあの心持ちを日々の、言うならば、日常生活の上に、しかも一家中でそれを表して行くならば、いよいよもって家繁盛子孫繁盛に繋がらない筈は無いというふうに思います、ね。それをどうでもやはりお祭りの時だけをたしかに真心を込めてしかも一心にね。願い続けて一人でもお参り、参拝者でも言うなら多いように賑やかにというふうにする。だからお商売でも同じなんだやっぱ。一人でも多くのお客さんが。しかも皆喜んで頂いてね、神様へのその喜びを受けるという事だけではなくて、御参拝を頂いておられる方達もその比礼に浴してもらうという事が有り難い、ね。それを言うならばもう先ず天候の事から万事万端、金銭の御つごうお繰り合わせの事から、もう万事の上にお繰り合わせを願うから、もう不思議に不思議に万事万端の上に御都合お繰り合わせを頂く事が出来る。
 だから、お祭りだけの事ではなくて、日々がお祭りの気持ちで、言うならば願いに願い、祈りに祈っていわゆる、真心を込めて一心に日々を過ごしていくという生き方がです、出来てくるとだんだんいわば、本当のものから本当のものへという信心と本当なおかげという事になってくるんです。こりゃもう本当にね。天地の事ですらが、そのお祭りの為に自由になって下さり、人間の生き死にという事にでも神様が時間を計ったように万事万端お都合お繰り合わせ下さるのですから、そのお祭りに差し支えが、いわば無いようにですからお祭りを仕えるその心持ちをです、日常生活に言うならば、表していくという事は難しい事じゃ無い。それが信心なんだ。だからどこがああだから、家もこうせにゃならんというのではない。やっぱりその各自の信心でいいのです。その各自の信心がいよいよ本当なものに本当な事への本当なおかげへとなっていく事の為にも、それがいよいよ永う続く、しかも、もう例えばならそのお祭りだけの場合だけでもです、お祭りを皆一家中で一心に願う、お祭りの時だきゃ確かにお都合お繰り合わせを頂けるという確信が合楽の御信者さんのお祭りを仕えられる所では出来ておると思うですよ。確かに金銭のお繰り合わせから天候の事から万事万端に御都合お繰り合わせを頂けるという事が真に分かっているんです。又その参拝をさして頂く人達も確かにそういう実感を味わう事が出来られる程しのお祭りなんです。こりゃ安東さんだけじゃなく、どこのお祭りの場合にしてもそれを感ずるんです。一家で勢を揃えておられる所なんかいよいよそれを感ずるんです。ですからあのう一家が勢を揃えてあの一心にしかも、お祭りを仕えるような心持ちで日々が過ごされる。成る程そうさして頂いたら素晴らしい事なんだけれども、その心が乱れたり、言うなら我情我欲の方へ傾いたり、お祭りを仕える。兎に角神様に喜んで頂くようなお祭り。神様に喜んで頂くような一日一日お商売でなからにゃならんという思いを、なら同じなんだという事。そこにはね、必ずまあ去年よりも今年というように繁盛の一途を辿るようなおかげが頂かれる、ね。これならば、永う続く、今年だんいっちょ止めようかといったような事ではなくてね、いよいよ続けていかずにはおれない信心。永う続くね。
 これは、皆さん特に昨日は私は安東さんの所でそれをしきりに感じたんですけれども。ははあこういうような祈りとか願いというものが、日々の生活にうつされる、その気持ちで日々の生活をするという事が、信心生活だなあという事を思いました。
どうぞ。